フード連合 ピースアクションin長崎
- 2023.08.09
<ピースアクション参加の感想 松本書記長>
私はいまでは東京で暮らして20年近くになりますが、長崎に生まれ育ちました。
ご存知でしょうか。長崎の小学生は、夏休み中の8月9日は登校日です。みんなで学校に行き、被爆者の語り部さんの体験談を聞き、11時2分のサイレンとともに1分間の黙とうをします。8月9日11時2分には、長崎の街全体にサイレンが鳴るのです。
「怒りの広島、祈りの長崎」という言葉もありますが、「祈りの長崎」を象徴する方が、今回のピースアクションでもたびたび名前が挙がっていた永井隆博士ではないでしょうか。永井博士は、長崎医科大学に勤務中に被爆し、奥様と2人の子供を亡くしました。残された長男と次女とともに暮らし、被爆者の治療にあたっていましたが、被爆から6年後、まだ小さな子供2人を残して自身も被爆症状である白血病のために亡くなりました。自らを犠牲にして診療にあたった永井博士が座右とした「己の如く人を愛せよ」という言葉は、労働組合活動にも通じるものと思います。
今回、私がピースアクションに参加して、語り部の羽田麗子さんのお話を聞き、改めて「体験」の重みを実感しました。いくら私が詳細にメモを取り、皆さんにお話ししても、抜け落ちてしまうなにか。翌日の原爆資料館の景色が、これまでとは少し違って見えたように思います。私が子供だった頃、語り部さんは被爆当時すでに大人だった人であり、直接犠牲者の救護にあたった医師・看護師といった方々でした。そういった方は既に亡くなり、いま語り継いでくださっているのは当時幼い子供だった皆さんです。あまりにも重い「体験」を直接聞くことができる期間は限られています。少し長いですが、羽田さんのお話についても、ぜひ最後までお読みください。
松本雄哉
<被爆の語り部 羽田麗子さんのおはなし>
みなさんに原爆のことをお話しする前に、なぜ原爆が落ちたのか、ということからお話をしたいと思います。子供たちに「なんで日本に原爆が落とされたと思う?」と聞くと、「うーん、戦争をしていたから?」という答えが返ってきます。確かにそうですよね。ですから戦争のお話から始めます。
戦争は満州事変からはじまり、15年間日本は戦争をしていました。そのころ、私たちは小学校に入ったんです。小学校のことは、当時は国民学校と言っていたんですね。教科書の最初にはのぼっていく朝日の絵があり、「アカイ、アカイ、アサヒ、アサヒ」と書いてありました。日本は美しい強い清い国なんだ、だからあなたたちは日本の国を守る強い兵隊さんになるんだよ、と教えられました。
1学期は普通の授業でした。授業参観もあった。お母さんが授業を見に来てくれて、嬉しかった。そして夏休みが過ぎ、2学期に入りました。そうしたら、9月の中頃にある日突然担任の先生から「あなたたちの命を守る大事なお話し」がありました。何かというと、それまで日本は、中国とか東南アジアとか、日本の外で戦争をしていました。でも戦況が悪くなってきて、だんだん敵の飛行機が日本の上空に入ってくるようになったと。そうしたらサイレンが鳴ります。まず警戒警報。これは、外にいてもいいけれど気を付けなさいという意味。そして、空襲警報。これが鳴ったら外に出ないで、防空壕に入らないといけない。夜に空襲警報が鳴ると町の電気が全部消されます。敵の目印になって爆弾を落とされるから。
敵の爆撃機、1機に120~200発の爆弾が積んであります。このたくさんの爆弾をばらばらと落とされるんですね。空襲警報が鳴れば学校には行けない。だんだん、学校にもなかなか出られなくなっていきました。そのうち、学校は閉鎖になりました。でも、最初に教えられた通り、かしこくつよい子供になって日本を守らないといけない。だから、お寺や大きなおうちの座敷で集まって勉強をしていました。学校の先生たちが、今日は空襲がなさそうだ、ということになれば連絡をして、集まってお勉強です。学校がなくなって、仲の良いお友達がいても、お話ができませんでした。だから、お寺で集まって勉強するという日がわかると嬉しくてたまらなかった。明日は集まって勉強だよ、という9日でした。となりのようこちゃんとお寺で何を話そうか、とわくわくしながら8日の晩は寝たんです。
9日の朝、空襲警報がいきなり鳴りました。だから防空壕でずっと待っていました。でも飛行機が来ない。だから警戒警報になり、そのうち警報は解除になりました。お寺に行ってお勉強して、お昼前に解散になって家に帰りました。そして家の玄関についたとき、ばあっと強い光がはしりました。何があったんだろう、と思う暇もなく、気を失ってしまっていました。
どれくらい経ったんだろう。目を覚まして防空壕に逃げなくちゃ逃げなくちゃと思い、母を探しました。母は台所にうずくまっていました。お母さん逃げよう、と母をゆすって起こし、母と一緒に防空壕に逃げました。どんどん防空壕に人が入ってきて、パニック状態です。どうやら見たこともない大きな爆弾が落ちたらしい。しばらくして静かになったのでそっと出てみました。
私の家の目の前には、366メートルの金比羅山という山があります。その上から見える空が真っ赤になっていましたた。山の左手には長崎県庁があります。左を見ると火の手が上がっていました。このまま自分の家も燃えてしまうのかなと怖くなりました。
山の向こうには長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)などがある浦上という地域があります。もう浦上はダメだ、建物は全部壊れていて、死んでいる人、傷ついた人しかいない、という声が上がりました。朝になって様子を見に行った人が、やっぱり浦上はダメだ、何もなくなってしまってる、と言うんです。
それを聞いたお隣のおねえさんが、うちのお母さんが帰ってきていない、と言いました。向かいのおばさんも、大学に行ったうちの息子も帰ってきていない、って。空襲警報が解除になったから、浦上のほうに行ったんだそうです。探しに行かないと、と大人たちは騒いでいました。
しばらくして、向こうのほうから黒い影が少しずつ近づいてきました。いつもなら、いの一番に駆け寄って、大丈夫ですか! というところだけど、足が動きませんでした。じっと見ていましたら、わっとお隣のお姉さんがかけていきました。その黒い影はおねえさんのお母さんでした。髪の毛はちりぢり、洋服はボロボロ、はだしで、顔にはおおきな水疱が何個もできていました。そのうしろから医科大生のおにいさん。私はおにいさんのことが好きでした。学校に行き帰りに挨拶してくれる優しいおにいさん。やっぱりあたまはちりぢり、顔は真っ青、ずぼんはぼろぼろ、はだしです。今日はあいさつもせず、ぼーっと私の横を通り過ぎていきました。おにいさんのほうを振り返って背中を見たら、ガラスの破片がいっぱい刺さっていました。おばさんがおうちに飛び込んで、布巾を持ってきていっしょうけんめいガラスを抜きはじめました。血管に刺さっていたガラスもあったんでしょう、真っ赤な血が吹き出てきました。その血と、血に染まったガラスの色が頭から離れません。
ケガをした人たちは、ボロボロになりながら浦上から金毘羅山を越えてやってきています。なんとかして助けないといけない。近くの公民館が救護所になりました。母たちは、タオルやハンカチを家から持って行って、救護活動をしていました。私は一人でいられない子だったんでしょうね、母の腕にしがみついて一緒に行ったんです。
たくさんのけが人がいます。おなかすいた、のどがかわいたよ、お嬢さんお水をください、という声が聞こえます。川まで走って行って、水を汲んできました。欲しいといった方に水をあげたら、それで最後です。みんな死んでいかれるんです。そんな状況でももう嫌だ、という感情にはなりませんでした。何とかしないといけないという思いでした。早く亡くなった方から順番に火葬しました。
こんなとき、水を飲ませたらなぜ死んでしまうか、知っていますか。血液がどろどろになっている状態で、水を入れたら急に血流が良くなって心臓に負担がかかってなくなってしまうんだそうです。だけど、お水をあげなかったら生きておられたかというと、そうではなかったとも思います。そんな状況でした。
そんな日が10日ほど続きました。そのころに日本は戦争に負けましたという玉音放送があったそうです。だけど私たちはそんなことわかりませんでした。私たちの街に落とされたものが原子爆弾というものだったということも、そのあとにわかりました。
原爆のこわさ。熱線、爆風、放射線という3つがあります。いまでも、その被害の跡は残っているんです。長崎の原爆は、すぐに亡くなった方が約7万人。その後に亡くなった方も含めれば22万人が犠牲になりました。
まず、原爆を使ってはいけない。使わないためには戦争をしてはいけない。戦争しないためには平和をしっかり考えて作っていくことが必要です。
平和というのは、黙っていても近づいてきてくれないものです。一人一人の頭の中でしっかり考えて育てて、それを表現していくこと。強い心と優しい心を持つこと。積み重ねてきた平和の思いを言葉にして、伝えていく。そうしながら守っていくものだと思っています。
3つ、お願いがあります。1つは、皆さんひとりひとりの命は地球上にたった一つの大切な命です。粗末にしないこと。人の命も大切にできる人になってください。
2つめ、差別をしないでください。こどもからおじいちゃんおばあちゃん、国が違っても言葉が違っても命の尊さはおなじなんですから。
3つめ、なにかがあっても話し合って解決してください。長くかかるかもしれない。ながくかかってもいいの。最後まで話し合いで解決することで相手のことが分かるようになるのですから。
以 上
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